【苔玉に寄せて】Vol.35〜苔玉との語らい

苔玉との語らい

  学齢期前3~5歳の頃、私は長崎港を一望するオランダ坂を上り詰めた辺りに育ちました。

 石畳の通りを挟んで下段の洋館を、駐留米軍が接収、米軍将校一家が居住しており、そこに私と同じ齢の少女がおりました。
金髪の幼馴染、彼女の家に遊びに行くことは私にとって最大の楽しみであり、日課となっていました。戦後間もない物資不足の私たち日本人の生活の中で、三時のおやつタイムの甘いクッキーやホットケーキは、夢のようなライフスタイルでした。しかも素晴らしいシャンデリアの下、テーブルに向かってサンルームでのデイト?・・・おやつタイムは「色気」抜き、ただひたすら「食い気」のみ。サンルーム室内花壇には艶やかにベゴニア・センパーフローレンス咲き、港を一望する庭先にはパンジー、デージーが咲き乱れていました。

 それに引き換え庭先百余坪に小汚い菜っ葉、芋の類の我家の庭先でした。食糧難の時世を理解できない幼少の私には、不満と疑問ばかりでした。「いつの日にか、花咲き乱れる彼女の家のような生活をしたい、それ以上に、甘いホットケーキを自分家で腹いっぱい食べたい」4~5歳の強烈な、食欲に起因した私の思い出。それはまた、私が園芸学を志すに至るファクターとなったのでした。

 

 今日、私の幼い頃の願望を実現することは、誠に簡単です。ベゴニアもパンジーも、容易に入手できる時代です。でも、今はそんな華やかな花達には少々飽きてしまっています。そして、オランダ坂の上り口辺りの岩肌に張り付いていた苔のことが、不思議と思い出されます。岩肌に張り付き密かに生きていた濃緑の苔が、幼い眼差しに焼き付いていたんです。

 幼い日に眼に焼き付いた、赤や黄色の艶やかな花達を決して否定するのではありません。

 でも、微かに記憶の片隅に残っていた細やかな苔のことが、蘇ってくるのです。明治以降の時代、そして戦後の苦しい時代、欧米先進国の生活レベルに憧れ、追いつき追い越せと、ひた走ってきた私たちでした。そんな焦燥感に苛まれた生き方の中で、私たちは如何程の汗してきたことでしょう。

 眼の前にある緑の苔玉に、己の生き様の真底を見透かされているようで、「ガツガツして生きるばかりでは、しょうがないだろう。しっかり足元を見よ」と、語り掛けてくれているように思う此の頃です。「苔」に心癒されながら、そんな気がしてなりません。

 

 

執筆者紹介 –  S.Miyauchiさん

日本農業園芸造園研究所代表。農業・園芸・造園について30年以上の業務・指導に務める。つくば市在住。
つくばの松見公園をはじめ、数々の有名庭園の設計に携わる。現在は全国各地で苔玉教室などを開催し、誰もが楽しく園芸に触れることができる活動を展開している。

 コラム「苔玉に寄せて」は毎月第2土曜日に掲載予定です。

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